昭和43年1月19日 夜の御理解 ★
拝詞の中に「神も助かり氏子も立ち行く道の開かれましたことは、真に有り難いことの極みでございます」というところがございますですね。皆さんが朝晩、御祈念をなさる時に、拝詞、言葉、ね、唱えます。その中に、神も助かり氏子も立ち行き、ね、そういう道が開かれたということは、真に有り難いことでございますとこういう。従来のこの信仰というかね、というのは、氏子が助かるということ、ね。ということはあるけれども、その度に仏様が助かり、神様が助かりなさるということではなかったですね。
そこんところを教祖の神様は「今までは方便の願い捨てであったろうが」とこう仰る。方便の願い捨て、ね。どこへお宮様に参りましても、どこへお参りしても、また、お願いをして、こちらからお願いをするだけであると。いわゆる方便の願い捨てである。ところがここに参ってくると、神がもの言うてくれる。神がもの言うてくれて、それをご返事として頂いて帰れる。神様のお言葉として頂いて帰れるということが有り難いじゃないかというふうに仰っておられます、ね。
なら、神様がもの言うて下さるというわけには参りませんけれどもですね、ここでは神様のお心とでも申しましょうかね、神様の願いとでも申しましょうか、ね。神様が私共、氏子一人一人の上に願いをかけてござる。神様のその心の中を切々として、こう訴えて下さる。お願いにたいすると、その願いを神様へお届けする。ここまでなら方便の願い捨て。けれどもそれに対してから神様が、いわゆる懇々と、または切々と、ね、こういうような状態になってくれよ、こういうふうにおかげを受けてくれよ、どうぞ信心しておかげを受けてくれよという、その言わばお頼みにならんばかりにですね、この御理解を下さる。
今晩は合楽会の、皆さん、今日は合楽会でございますから、合楽会の皆さんの中にもたいへん熱心な方達がだんだんできられましてから、この6日から寒修行が始まった。2月の4日まで、一月間、これはもう全教あげて一斉祈念があっております。
その寒修行に参加される方達もだんだん、合楽にも増えられましてね、本当に有り難いことだということに思いますけれども、ほとんどの方は、なら朝の御祈念の味わいといったようなものは、分かられない方が多いのでございます、ね。そのお参りにはなりましても、その朝の御祈念の雰囲気というかね、いわゆる修行させて頂こうというご信者さん方は、まあそうですね、まあ10人くらいおありになりますでしょうか、ね。
私はこの修行させて頂くということが有り難いと思うんですね。修行させて頂きませんとですね、神様がその方便の願い捨てじゃあない、切々として言うて下さることもです、ね、頼んで下さることもです、それが頼みを頼みと思わず、切々としてあんなに言うて下さるということをです、心にキャッチすることができない。それを頂きとめることができない。ただ、自分の言うたことだけお願いしてから、ただ、帰るのが信心のように、今までは思うておったもんですからね、お互い。これは特に日本人の宗教というのはそれだった。
でなかったら、その祈念祈祷と、まじない、(ふきまじない?)と。といったような信心を信心だとこう思い込んでおった。今日も先ほど、久保山さんがお参りになりまして、久保山さんじゃありませんでしたね、石井さん。昨日のお月次祭からお参りになってるんです。もう昨日、私は月次祭をもう、時間でしたから私ゆっくりお取次ぎさして頂きましょうと言うて、お話も(ろくに?)聞かなかったんですけど、今日はお話を聞かせて頂いてから、はあ世の中には難儀なことがあるなあとこう思うのです、ね。
娘さんが5年生の時に、(しょうにゅうはい?)にかかられた。それも話を聞きますともう、たいへんな状態なんですね。本当に言語が全然、不自由であったわけなので、もう体はもう本当に曲がられるぐらいに半身が、それがです、5年生までは当たり前に、言わば学校にも入れておいでられたであろう、お父さんお母さんと言うて、楽しい生活ができられよったでしょうけれどもです、もうそれこそ一瞬にしてですね、そういう悲しいことに苦しいことになられたんですよ、ね。小学校の5年生ぐらい、ね。
そこでその、これも今、私、田中さんから聞かせて頂いたんですけれども、田中さんがお夢を頂かれた。それに、まあいろいろと事情があるんですけれども、石井さんがですね、一生懸命にこの貝を掘っておられる。貝を掘っておられるところのお知らせを頂かれて、こりゃあお導きせにゃいかんとじゃろうと言うて、話して頂いて、昨日からお参りになっておられてから有り難い、私共も及ばずながらひとつ、本気でお祈り添えをさして頂こうと言うて、今、お届けがあったんですよね、うん。
本当に、先生けれどもどういうことでしょうかって言ってから。それはね、石井さんがおかげを受けられたらですね、貝ということはね、合楽会という会。もとは神愛会とこういう、神愛会の会、会員の一人一人のことを貝をもってお示し下さるんですね。ですから、例えば合楽会の中で合楽会に参加されて、そして、おかげをこうむられる。石井さんが本当におかげを頂かれるとです。もう次々とです、貝を、ちょうど潮干狩りに行って、貝を掘り出すようにです、そりゃ様々な貝がありましょう、ね。
大きな貝、小さい貝、ありましょうけれども、はあ、ああいうふうにおかげが受けられるなら、私たちもいっちょお参りしようかというような貝が沢山できてくるという、お知らせなんですよ。そういう意味合いでですね、私は石井さんは、本気でひとつご信心なされなければいけない、本気でその貝を掘り出すようなおかげを受けなさらなければならないと私は思ったんです。
それは信心が、金光様のご信心がどういう信心かということは分からない。ただ、近所の方、久保山さん辺りが、もう熱心にもう本当に有り難い有り難いと言うてお参りになるから、ね、こうして一緒に導かれて参ってみえておるという、今日で言うならば2度目のお参りをされただけのことでございますから、分かれるはずがありません。そこで、今晩参ってみえて、実は私の方の娘はこうこういうような、難儀な状態でございますけれども、先生どうでしょうか、助かることができるでしょうかとこう言われるわけなんです(笑)。
それで私は神様にそのことをお願いさしてもらいました、ね。そしたら、ある事をこれは私はまだ申し上げるわけにはまいりませんけれども、ある事を頂いたのですよ。そういうことになるまでにはね、もう偶然とかぽかっとそういう難儀が降ってわいてくるようなことはないです。必ずそれにはですね、もうそれこそ、いろいろな原因があるんです。もとがあるんです。ちょいと食べ過ぎたけんで、胃が痛か。食べ過ぎたから胃が痛いのじゃないです、もう食べ過ぎらなければならないもとがあるの。
そのもとがです、それが一遍で分かるこっちゃあない、話を聞いていきよるうちにです、もうそれこそ、これは誰でしたかね、合楽のどなた、ああ、「こうじゃく?」さんがね、「こうじゃくちかこ?」さんが頂かれたんですけれども、先生その因縁ていうか、めぐりっていうかね、というものはどういうものでしょうかと言うてお伺いになった時に私が★ご心眼に頂きましたのが、お知らせに頂きましたのがね、たまねぎを頂くんですよね、たまねぎというこう、大きな根がある。
けれどもその根の下にはまた、それこそ無数の根があるでしょうが。沢山の子根があるでしょうが。というようにです、ひとつの難儀なら難儀というものがここに降ってわいたように、例えば起きてくるわけなんですね。それこそ、一番長女に生まれなさった、それこそ蝶よ花よで、まあ育てなさったに違いはないのです、ね。娘のことではあるし、どうぞとその親の祈り願いというものがないはずがないです。
そういう親の愛情の中にあってですら、さあ親でもどうにもできないことになってきたわけなんです、ね。というようにですね、ならそれがですね、ただ、そういう、こういう原因でこういうことになったと言うんでしょう、ひとつだけのこっちゃあないって、ね。ここは、いよいよ、宗教的にそこんところを追求していかなければ、分からんのでございます。
それがひとつひとつ、根が消えていくようにおかげを頂いていく姿がです、お互いが助かっていく姿なんです。そして有り難いことにはですね、例えば因縁なら因縁が切れたというようなもんじゃなくてです、そういうめぐりが大きければ大きいだけ、おかげが大きいというのがお道の信心なんです。ここが有り難いですね。
因縁が切りたつようじゃないのです。例えば私の方ながらもうそれこそ、めぐりの親玉のようなめぐりを持っておったわけです。だから、あのような難儀に直面したんです、ね。もうそれこそ、大変な難儀でした。それは、経済的だけではございませんでした。もう本当にもう肉親の者が次々と亡くなっていくですね、若い者が。もう何のためになら、これだけの信心さしてもらいよるとに、どうしてこういうことが次々と起こってくるだろうかというような状態の中にですね、それがひとつひとつ、取り払われてまいりましたら、私が助かってきただけじゃない、家族が助かったというだけじゃない、このように沢山の人が助かるような、できたんですから、そういうめぐりが大きければ大きいほどです、ね、そういう難儀なら難儀が大きければ大きいほど、おかげも大きい。
そういう意味で石井さんのお宅はですね、もう本当にどこにもないような大きな難儀を持っておられるけれども、その代わりにここんところがおかげを受けられたらどこにもないようなおかげも受けられる。それこそ、沢山な貝を掘り起こしていけれるような、石井さんを中心にして次々と助かっていかれる人達ができるような、おかげの頂けれる私は、ものを持っておられるということを感じますです、ね。
石井さんが言われるように、私の方の娘は助かることができるしょうかということに対して、私はあることを頂いた。これは一口二口で言えることではないから申しませんけれどもです、けれども石井さん、こういうことだけははっきり言えますよと言うて、お話ししたことでございます、ただ今、ね。
「きょうこ?」さんて仰るわけですね。きょうこさんがですね、そういう、例えば難儀の中からです、また健全な体に戻んなさるというようなことを、私はそれは請け合いはできません。どうとも(みきともいたる?)とも申されませんけれども、ね、けれども、きょうこさんのそういう難儀を通して、あなたが助かりなさり、きょうこさんもより幸せになれれる道が開けてくることだけは、これはもう絶対、私は請け合いますっちゅうわけ、ね。
ならそういうような、私は道とはどういう道だろう、そういうように、母親が助かり、子供も幸せになっていけれる、幸せになっていけれる道というのはどういう道だろう、ね。
今、久保山さんがここでお届されるんですよね、親子でお参りしてみえてから。今、毎朝、寒修行にお参りになります。もう先生、もうこの頃はもう毎朝、毎朝、朝の御祈念が楽しゅうてたまらん、楽しいじゃない有り難うしてたまらん。とても一日でも欠かすわけにはまいりませんほどに、有り難うなりましたとこういうわけ。私は幸せとはそれだと思うんですけど、皆さんどうでしょうか。
どんなになら娘さんが健全になられた、健康になられた。あんなに貧乏しておったのに、こんなに金持ちになった。それだけで人間が幸せになれるとは絶対言えんのです。久保山さんが現在どういう中にある、それは金銀玉露のようなお家に住まわっておられるとか、合楽の金光様にお参りするようになったら、こげなおかげも頂いた、あげなおかげも頂いたということはないけれどもです、そういうおかげが頂けれるに間違いはない、言わば元であるところの心の中にです、ね、朝の早い中からああしてお参りをされていきながらですね、もう有り難うして有り難うしてという心が開けてきよるということなんです。
これは、ね、例えばご主人からこういう何万円もするような着物をつくってもらったといったような喜びとは違うんだ。とてもこげなおご馳走食べた時の喜びというのとはまた違うんだ、ね。これは信心さして頂かなければ頂けることではない、ね。「神も助かり、氏子も立ち行く道の開かれましたことは、真に尊いことの極みでございます」と仰る。拝詞の中に私共お唱え申すのはです、ね、そういうふうに久保山さんが助かっておいでられる、そういう姿をご覧になる時に、神様がはあ、もう久保山「ちよこ?」はもう大丈夫だと安心して下さるのですよ。
あの喜びを頂いていくからにはです、もう朝参りが止められんごとに有り難うなってきたということはです、もうあの氏子だけは大丈夫だ、あの氏子はもう大丈夫だと、親が安心してくれる、ここに親の喜びがあり、氏子の喜びもある、ね。石井さんにも申し上げますように、ね。娘さんのそういう病気が全快される、健康になられる、それは私は請け合いはできませんけれども、きょうこさんが幸せになれる道、あなたが幸せになれれる道ならば、あなたがここに通うてみえられる限り、絶対おかげは受けられる。
これも私が請合いますって、ね。そして、んならご祈祷でもして頂けるじゃろうかとこういうことでございましたから、ご祈祷でもない、ここの神様の、金光様の御信心はね、祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かるのぞと仰る。祈念祈祷じゃない、(ふきまじない?)じゃない、ね。
けれども、神様はですね、もう本当に私も毎日毎日が不思議で不思議でたまらん、有り難くて有り難くてたまらんと思うんですけれどもね、今日も、私、ちょうど1時頃、お食事を終わらして頂いておりましたら、高橋さんが朝の御祈念に参ってそのまま御用頂いておられてから、久留米に行って帰って来られました。この方は、だいたいは福大じゃなかった、あっ、九大。九大を出られて法学士の肩書きをもっておられます。
けれども神様からお寿司をしたらよかろうということで、お寿司屋になられた方なんですけれども、たいへん繁盛のおかげを受けております。ちょうどそちらが見えましてですね、一緒にお茶でも頂きよりましたらですね、急に私がもう、自分で顔色まで悪うなっとるだろうと思うぐらいにお腹が痛み出したんですよ。私はある所に行かなければならんために、高橋さんの車で送ってもらうように話して、ならお茶一服頂いてから送ってもらおうと言うて、お茶頂いてたところが、こら要するに行けなくなったわけなんです、いろんなことで。
だから私は休ましてもらう、んなら私でよかが一時ばっかり、なら腹をもませて頂こうというわけで、高橋さん、一生懸命その腹をもんで下さった。こう(?)なってから腹もんでもらいよったわけです。ところが痛むとがいっちょん良うなりませんもん。金光様金光様と私が一生懸命、お願いさしてもらいよりましたらですね、★バックボーンということを頂くんですよね。ところが私がこっちが無学なもんですから、バックぐらいなことは分かりますけど、そのボーンが分からんのですよね、バックボーンです。
片一方はその、大学まで出られた方ですから、今ね、高橋さん、私はバックボーンて頂いたんだけれど、バックボーンちゃあどういうことかと。バックボーンということは背骨ということですよっち、背骨。ははあ、そんならこれは高橋さん、前から腹ばっかりのせたっちゃいかんばい、これは背骨ば押さにゃいかんとばいとちゅうてから、私はひっくり返ってからですね、それでもあなた、胃の悪か、腹いっちょん悪かであんた背骨押してどうしますのっちゅうて、今、バックボーンて頂いたもんじゃけん、とにかくそげんしてんのっち。
もうほんなこって、背骨ばこうしてから、こう押した途端に止まったんですけんね。もうそればってん、どげん考えたっちゃ、高橋さん、不思議で不思議でたまらん、私はもうほんに、毎日、毎日、不思議で不思議でたまらん世界にこう住まわして頂いて、有り難い有り難い中に住まわして頂いて、そしたら、押さえとる高橋さんの方が今度は有り難とうなっとるふうですもん、ね。本当に神様ちゃあなんと有り難いことじゃろかという。
ところがですね、私がなるほど腹が痛んだなあというわけがあったんですよ。しばらくもんでもらいよりましたら、久富先生が、あの今、久留米の(すしかっつぁん?)がお参りして来とります、息子さんが初めて参って来たんです。田主丸の(こいとりまーしゃん?)ておられるでしょうが、あちらの長女を嫁さんに去年もらわれた、お母さんが参って来られたんですね。
ところがその、子供さんができた。それでその、お名前を頂きに来たんですよね。それで、久富先生がお届されたところが、「栄」という字を頂かれた。だからまあ「えいじ」か何かっちつけた方がよかろうと、まあ自分で思いよったけれども、なら親先生が休んでおられるから、親先生にお伺いしてみましょうと言うて、あちらに見えました。で、見えましたら、私が一番初めに頂くとが「福」という字を頂きます、福、ね。
ですから、私は高松という、高松、長男だから太郎をつけたがよかろうと思うて、私、「福太郎」という名前を付けさして頂きました。ならもう本人も喜びましてですね、これはもう素晴らしい、これはもう本当に、福太郎と。ところが先ほど、久富先生が頂かれたように、栄という字と福という字は同じような意味なんです、福の心なんです。栄えるということ、ね。言うなら福の御理解なんです、ね。
だから、必ず、繁盛になるだろう、福福しゅう育っていくだろうと、というのではなくて、こういうおかげを下さろうとしておるのだから、あんたしっかり信心して、いよいよ福福しゅう栄えていくような、いわゆる親父の代よりもこの子供の代に繁盛するようなおかげを頂くためにも、信心さしてもらわにゃいけませんよと言うて、まあお話したことなんですけれどもです、ね。
その高橋さんのお寿司屋さんですけども、そこでこの人のお母さんとお父さんは職人さんと女中さんをしておられたんです、元は。(すしかっつぁん?)は。久留米の(すしかつ?)というて、大きな寿司屋がありますよ、ね。そこの辺が何とも言えん、こう神様のこう、繋がりというものを感じるでしょうが。高橋さんがしたら、私の腹をもんでおられるところへです、それこそ、以前、いわゆる福岡の(みゆぐち?)さんの所で女中さんと職人さんをしておられた人の子供さんがお参りをして来ておる。
それで、そこで高橋さんとその高松さんとの話がです、ね、私がおかげ頂いてこうだから、あんたもどうでもこうでもひとつ信心しておかげ頂きなさい、この子供のためにもひとつ、おかげを受けなさいよと言うてその、お話をされるのがです、私が話すよりも高橋さんが話された方が、有り難いわけなんです、そういう繋がりがあるのですから。その日にですね、神様のこのお引きまわしということの素晴らしさに、いつも私は不思議に思います、ね。
田中さんがお夢を頂かれた、久保山さん聞かれた、ね。それを石井さんが受けられた。そして、お参りをされるようになられた、ね、そして、こちらがおかげを受けられるならです、それこそ沢山の人がこの人に付いて来るだろうというような、お知らせのようにです、それが実現するためにこれから本気で石井さんは御信心をなされなければいけない。
そして、御信心をなさるのは、祈念祈祷でなでたりさすったりしてもらうのじゃない、いよいよ話を聞いてです、いわゆる神も助かり氏子も立ち行く道の開かれたことが尊いことであるということをです、まあ何と有り難い道であろうか、何と有り難いことであろうかと、久保山さんじゃないけれども、有り難うして有り難うしてというような心持が、その石井さんの心の上に開かれてくるようになり、それから先はです、どういう奇跡がある、これは分からんのでございます。
それが受けものなんです、ね。今、申します、久富先生の娘さんなんかは、ね、(しょうにまへい?)がおかげを受けておるのでございます。めくらが目が明いておるのです。ちんばが立っておるのです、ね。そういう奇跡があって、そういうおかげを受けてもおりますけれどもです、なら、それを私は請け合いはできないと私は、ね。
けれども、はっきりこれは言えれること。請合えることはです、ね、あなたが幸せになっていけれる道、あなたが有り難くなっていかれる道、もうこれだけ、私があなたにはっきり言えれる、ね。金光様の御信心とはそういうような、信心なんですね、ね。とにかく、今までかつて味合うたことのない有り難さというものがです、自分の心の中いっぱいに広がってくる、ね。
もう本当にあの人達は馬鹿じゃなかじゃろうか、こん朝早うから寒かとに、ね、眠かつ堪えてから、金光様、金光様ちゅうて参りござるが、中村さんだ、日に三遍も参りよっとげな(笑)。ちっと、馬鹿じゃなかじゃろうか。ぼうけっとっとじゃろうというようなですね、噂も聞かんことはないって、やはり。けれども、んなら中村さんの心の中に生まれてきよる喜びというか、久保山さんの心の中に開かれておるところの信心の心というか、これはね、それこそ(おだいちさま?)じゃないけれどもです、「空海の心の中に咲く花は、弥陀より他に知る人ぞなし」というような心がです、開けていきよる、それが有り難いのです、ね。そういう、有り難い心にです、神様はもう一切のものを恵まれるというのが、天地の親神様なのです。
そういう有り難いという心に、願わんでも頼まんでも、健康のことは言うに及ばず。金銭のことも言うに及ばず。人間関係の様々な難儀と言う難儀な問題がこれは願わんでも頼まんでも解決していくというのが、お道の信心なんです。それは、まあちょっとした見本が言うならば私なんです、ここでは、ね。もう毎日毎日が不思議で不思議でたまらん。有り難うして有り難うしてたまらん、そういう心を開いていければです、そういう心になりたいと言うて、ここに集まって来られる人達がだんだん増えていくようにですね、そういう意味でです、そんなら信心にはどうでもその修行が必要であるということが分かります。
それも、んなら、日断ち水断ちといったようなものではなくてですたい、ね。本当に家業の行の中に、例えば朝参りなら朝参りの、寒修行なら寒修行中にです、皆さんがですね、本当に一遍でもええ二偏でもええ、お参りさして頂いて、その雰囲気を味合われて、はあなるほど、これじゃあ皆さんがお参りになるはずだといったようなものを頂かれるならばですね、こんな有り難いことはないと思うんです、ね。
今日は、合楽会の初の、今日合楽会でございますよね。ですからその初の合楽会にはまた、皆さんのいろいろなお話し合いがございますでしょうけれども、まあ言うならばここに二年目を迎えたわけでございますから、信心も一段と、やはり向上していかなきゃ、ね。おかげを頂くという、おかげを頂こうという信心から、ね、信心を頂こうというような信心にね、なってまいりますりゃあ、おかげの方はもう、願わんでも頼まんでもいいとです。
そして、自分のますます有り難うなっていくというのが、お道の信心ですからね。そこんところを腹に入れてからの信心。そういう信心を頂いていかれると有り難いですね。どうぞ。
明渡真